日本人初のプロサッカー選手は、実はさだまさしの弟だった!佐田繁理さんの現在のお仕事は?!

 

 

日本初のプロサッカー選手といえば、
1970年代、当時世界最高峰のリーグ
といわれたドイツ・ブンデスリーガで

活躍したサッカー界のレジェンド・
奥寺康彦氏
を思い浮かべる方が

ほとんだと思います。

しかし!実際にはそれ以前にプロとして、
海外で活躍された日本人がいたのです。

それがこのお写真の方、
さだまさしさんの実弟の
佐田繁理さんなんです。

 

目次

日本初のプロサッカー選手いわれる理由

 

佐田繁理さんは
歌手さだまさしさんの実弟

現在はさだまさしさんの所属する
さだ企画の代表取締役社長。

長崎南山高等学校時代に、
かなりの才能を発揮し

プロからのスカウトは必須と
言われながらも、
どこからもお声がかからなかったそう。。。

なぜかと言うと!

実は裏で、お父様とさだまさしさんが
全てのオファーを断っていたそうなんです。

佐田繁理さんは知らなったようなので・・・

知っていたら日本人初の
プロサッカー選手の
裏歴史も変わってましたね。

 

そんな中、日本国内ではなく留学
というかたちで台湾大学へ。

台湾大学でサッカー部に所属し、
なんと台湾代表に選ばれてしまうのです。

しかし・・・国籍が日本人ということで、
台湾代表から外されてしまいました。。。

 

とは言っても、実力は本物です。
香港のプロチームのスカウトの目
にとまり、奥寺さんよりも2年早い、

1975年には香港サッカーリーグの
東方足球隊でプレー
することに!

しかしプロサッカー選手としての
キャリアは1年間。
引退するとこになります。

 

なぜプロ選手をやめた?

 

当時「グレープ」としてデビューしていた実兄さだまさしさん。

さだまさしさんは、
1975年にグレープを解散、
独立しソロで活動することになります。

プロ選手をあっさり、
ワンシーズンで辞めた理由。

それは中学の頃、実兄さだまさしさん
との約束
があったようです。

 

実兄、さだまさしとの約束

 

実兄のさだまさしさんから、
『独立したときは手伝ってくれよ』
という言われそうです。

当時中学生だった佐田繁理科さん。

ソロとして活動することになった
兄のサポートのため、
プロを1年で引退し日本へと帰国します。

中学生の頃の実兄とのその約束は、
心の奥にずっと刻まれていたんですね!

 

その後の人生

 

台湾、香港でのご活躍後は、
語学勉強のためニュージーランドへも
行かれていたそうです。

芸能プロモーターさだ企画の
取締役社長
として、

実兄さだまさしさんを支えながら
会社をきりもり。

そんな佐田さんが、
オーナーで代表を務める

エルマーノ那須という
少年サッカーチーム
にも注目したい。

忙しいスケジュールの中、
練習や試合にも足を運び
指導にあたっているそうです。

佐田さんの家族3人で、
那須の自然に惹かれ千葉県から移り住み、

ご長男が入っていた小学校サッカー部の
監督を引き受けたのが
きっかけだったとのこと。

チーム名は「エルマーノ」で、
スペイン語で「仲間」の意味。

結成当時は、敗退を続けたクラブチーム
だったようですが、
順調に力をつけ上位に残るほどまでに
成長しているようです。

チーム全体がまとまって、
とても雰囲気の良いチーム
に成長し、

サッカーという競技を通して
仲間を思いやる心を育てたい、

真の強さはチームワークだという
佐田さんの願いも順調に
培われているようです。

 

 

 

まとめ

 

海外でプロとして活躍した
日本人のお一人、佐田繁理さん

海外で初のプロサッカー選手は、
実は奥寺康彦氏ではなかった
ということも驚きでしたが、

さらにさだまさしさんの実弟であった
というのも驚きです。

その後の人生もパワフルで、
ダイナミックですよね!

現在、育てている少年サッカーチーム
からも海外でプロとして活躍する
子供たちに成長してくれることを願いつつ、

これから芸能プロモーターとしての
ますますのご活躍
にも期待したいですね。

今日も最後まで
読んでくださって、
ありがとうございました。

今日の皆さまにとって
素敵な1日と
なりますように!

 

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